LOGIN朝のホームルームが始まる十分前、昨日までならクラスメイトの笑い声や机を引く音なんてほとんど意識したこともなかったのに、その日だけは周囲の音が急に遠くなったような気がして、私は床に落とした筆箱を拾うことさえ忘れたまま、隣の席に座っている篠宮君の顔を見つめていた。
「……もう一回言って」
「高梨は、どんな男が好きなんだ?」
聞き間違いではなかった。
しかも篠宮君は、私がどうして筆箱を落としたのかわからないという顔をしている。
いや、わかってほしい。
昨日の放課後、罰ゲーム告白で一悶着あって、そのあと二人で帰りながら少し妙な空気になった翌朝に、男子からいきなり「どんな男が好きなんだ」なんて聞かれて、平然としていられる女子高校生がどれくらいいるのだろう。
少なくとも私は無理だった。
「篠宮君って、こういうこと平気で聞く人だったっけ?」
「平気ではない」
「じゃあなんで聞くの」
「知りたいから」
第67話 「下手でも笑わないでくださいね」御曹司の妹の初舞台は、たった一言の台詞から始まりました プラネタリウムへ行った翌週の木曜日、昼休みになってすぐ、篠宮君が珍しく自分の席から動かないままスマートフォンを見ていた。 席替えをしてからというもの、朝は私の席まで来るし、昼休みも相沢君と食べる日以外はだいたいこちらへ顔を出すので、逆に来ないと少し気になる。「紗季」 美咲が、私の視線の先を追って小さく笑った。「気になるなら行けば?」「何が?」「篠宮君」「別に気になってないよ」「三回見た」「数えないで」「席替えしてから、紗季も結構わかりやすくなったよね」「前からこんなもんでしょう」「前は隣にいたから見る必要なかっただけじゃない?」 その指摘には少しだけ言い返しにくい。 私は弁当箱の蓋を開けながら、もう一度だけ教室の後ろへ視線を向けた。 すると今度は篠宮君と目が合った。 本人が立ち上がる。「ほら来た」「美咲、実況しないで」 篠宮君はスマートフォンを持ったまま私たちのところへ来た。「高梨」「何?」「今週の土曜日、予定ある?」「午前中は店。午後なら空いてると思うけど」「美玲の学校へ行かない?」「美玲ちゃん?」 その名前を聞き、美咲も顔を上げる。「演劇部の?」「うん」 篠宮君が少しだけ笑った。「入部した」「本当に?」「先週正式に」「よかったじゃん」
第66話 「蓮司くんって、もう一回呼んで」約束のプラネタリウムで、御曹司が子供みたいに照れました 数学の答案が返ってきた翌日、教室では他の科目の返却も始まり、朝からあちこちで喜びと悲鳴が入り混じっていた。「英語、七十八。前回より三点上がった」 美咲が答案を見せてくる。「いいじゃん」「でも現代文七十六だった。もう少し欲しかったな」「十分でしょう」「紗季は?」「英語八十三。国語七十九」「安定してるね」「数学だけ急に八十一だったから、自分でもそこが一番嬉しい」「そこは篠宮先生のおかげ?」「先生って言ったら本人嫌がるよ」「じゃあ家庭教師彼氏」「もっと嫌な言い方になった!」 私たちが笑っていると、後ろのほうから相沢君の声が飛んできた。「高梨! 英語何点だった?」「八十三」「うわ、負けた」「相沢君は?」「六十八。前より十二上がった」「すごいじゃん!」「篠宮に『長文で止まるな』って言われたのと、桜井の読み方真似したら結構いけた」「ちゃんと成果出てる」「だろ?」 少し得意そうだった。 そこへ当の篠宮君が、自分の答案を持ってこちらへやってくる。「相沢、英語六十八おめでとう」「お前は?」「九十六」「聞かなきゃよかった」「何で?」「こっちが十二点上げて喜んでんのに、お前平然と九十六出すからだよ」「でも相沢は前回よりかなり上がった」「そういう正論っぽい慰め、今日は嫌じゃない
# 第65話 「八十一点。約束だから、お願いしてもいい?」御曹司に教わった数学で目標を超えたら、逃げられなくなりました 定期考査初日の朝、私はいつもより十五分早く教室へ着いた。 試験前日に夜更かしをするとろくなことにならないと母にも篠宮君にも念を押されていたので、昨日は十一時前には布団へ入ったのだけれど、目を閉じたあとになって数列の公式が頭に浮かび、「あの問題でもし一般項が出なかったらどうしよう」「物理の単位を間違えたら嫌だな」と考えてしまい、結局いつもより寝つきは悪かった。 それでも睡眠不足というほどではない。 むしろ問題は、学校へ着いた途端に周囲の空気へ飲まれたことだった。「ここ絶対出るって!」「いや先生、昨日ここ飛ばしたから出さないでしょう」「それが逆に怪しいんだって」「英単語あと二十個しか覚えてない!」 教室中で最後の確認が始まっている。 こういう時間に新しいものを見ると余計に混乱するとわかっているのに、誰かが「ここ出る」と言えば気になるし、自分だけ知らない公式が書いてあるような気までしてくる。 私は自分の席へ座り、数学のノートを開いたところで、一度深く息を吐いた。「高梨」 声がして顔を上げる。 今日も篠宮君が教室後方の自分の席からこちらへ来ていた。「おはよう」「おはよう。今日は早いね」「高梨も」「落ち着かなくて」「昨日何時に寝た?」「十一時前には布団入った」「勉強は?」「十時半で終わり」「よし」「何、その確認」「夜中までやってないか気になった」「蓮司こそ?」「学校」「あ」 私は周囲を確認して声を落とす。「篠宮君こそ何時まで?」「十時まで。そこから風呂入って本読んで寝た」「珍しい。もっと勉強するかと思った」「莉奈に『前日に詰め込んで睡
第64話 「篠宮君、勉強会なのにケーキを三回断るのやめて」御曹司をうちの店に連れてきたら、友達まで彼の不器用さを知りました 最初の勉強会から三日後の金曜日、私たちは予定通り、パティスリー・ソレイユの二階で二回目の勉強会をすることになった。 考査まで残り十日ほど。 相沢君は数学で六十点、私は八十点という目標を決め、美咲は「とにかく後半の大問まで手をつける」、莉奈は「数学で前回より五点上げる」と、それぞれ現実的なのか少し背伸びなのかわからない目標を設定している。 そして篠宮君だけは、自分の点数目標を聞かれても「前回よりケアレスミスを減らす」としか言わなかった。「それ点数目標じゃないでしょう」 昼休み、私がそう言うと、少し離れた席からこちらへ来ていた篠宮君は困ったように考えた。「でも前回九十八だったから、百点って言うしかなくなる」「腹立つなあ」 美咲が即座に言った。「篠宮君、本当にそれ学校で大きい声で言わないほうがいいよ」「今かなり小声」「声量の問題じゃない」「じゃあ何て言えばいい?」「『俺もミス減らしたい』くらいでいい」「でも点数聞かれたら?」「そこまで細かく正確に答えなくても人間関係壊れないから」「曖昧にする?」「嘘は駄目だけど、全部開示する義務もないでしょう」 篠宮君が少し考える。「最近、その区別かなり増えた」「何が?」「嘘をつかないことと、何でも話すことは違うって」 私が一瞬黙る。 あの人は最初、私が「嘘をつかない人が好き」と言った言葉を、ずっと強く覚えていた。「そうだね」「前は、隠したら全部嘘になると思ってたかも」
第63話 「赤点を取ったら次のデートどころじゃないよ」御曹司に勉強を教わったら、放課後の補習が本気すぎました 美玲ちゃんが演劇部への入部を決めた翌日、私たちの教室では、それとはまったく別の意味で逃げられない現実が突きつけられた。「来週から定期考査二週間前だからな。文化祭前後で授業進度がかなり乱れた教科もあるが、それを理由に範囲が狭くなると思うなよ」 朝のホームルームで佐伯先生がそう言った瞬間、教室のあちこちから悲鳴に近いため息が上がった。「先生、それはひどくないですか?」「文化祭で授業潰れたの学校側ですよね?」「だったら範囲も減らしましょうよ」 次々と不満が飛ぶ中、佐伯先生はまったく動じない。「授業が潰れたぶん、補足プリントも出してる。あと、今さら私に文句を言っても試験問題を作るのは各教科担当だから無駄だ」「先に逃げた!」「教師としてどうなんですか!」「現実を教えるのも教育だ」 そう言われてしまうと反論しづらい。 私は配られた考査範囲表へ目を落とし、最初の国語と英語までは「まあ何とかなる」と思っていた。 問題は、その下だった。 数学。 数列と図形。 物理。 力学。 私は思わず小さく唸った。「高梨」 少し離れた後ろの席から声がする。 振り返ると、篠宮君がこちらを見ていた。「何?」「今、かなり嫌そうな顔した」「数学と物理見たらね」「苦手?」「苦手ってほどじゃないけど、得意ではない」「前回何点?」「数学七十二、物理六十八」「赤点ではない」
第62話 「お兄様、恋人ができてから普通すぎません?」御曹司の妹が学校帰りに突然やって来ました 水族館へ行った翌日の月曜日、私は朝から少し眠かった。 別に帰りが遅かったわけではないし、夜更かししたわけでもない。ただ、寝る前になって篠宮君から送られてきた青いクラゲのキーホルダーの写真を見返してしまい、そのあと水族館でのことを思い出し、さらに海沿いのベンチでしたキスまで思い出した結果、布団へ入ってからなかなか眠れなくなっただけだ。 自分でも十七歳らしいと言えば十七歳らしいし、落ち着きがないと言えばその通りだと思う。「おはよう、高梨」 教室へ入ると、今日も私の席の横に篠宮君がいた。「おはよう。今日は何分いる予定?」「ホームルーム五分前まで」「自分で時間決めてるんだ」「佐伯先生に毎朝戻れって言われるから」「言われる前に戻ること覚えたんだね」「うん」 篠宮君が少し得意そうにする。「そこ褒めるところじゃないよ」「でも改善した」「改善前がひどいの」 私は笑いながら鞄を置いた。 篠宮君の学校鞄には、当然ながら昨日買ったクラゲのキーホルダーはついていない。「クラゲは?」「家で使ってるバッグにつけた」「本当に使ってるんだ」「使うって約束したから」「約束まではしてないよ」「でも高梨が『使うならいい』って」「言ったけど」「朝、かなり見た」「そんなに気に入った?」「昨日思い出すから」「はいはい」 軽く返すと、篠宮君が少し不満そうな顔になる。「最近、高梨『はいはい』増えた







